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[転載]教育勅語の曲解を正そう -- 発布直後から国を上げての曲解。井上毅に戻り当たり前の解釈を取り戻そう。

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明けまして、おめでとうございます。
次の御代に、我が国がよみがえる準備を始める年にいたしましょう。

平成30年 正月

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本年はじめの記事は、「教育勅語」 についてです。

「教育勅語」 は発布直後から、
国を上げて曲解されつづけているのをご存知ですか?

徳目を紹介しているだけなのに 「曲解」 とは、どういうことでしょうか?
もう今さら関係ないって? いいえ、この「曲解」 は放置できません。
なぜなら、「曲解」の結果として、
「教育勅語」 はGHQから侵略戦争の道具だと断罪され、
我が国の教育の根本は否定され、
無道徳・人権主義・平等主義・自虐の横行を招いているからです。

この記事を通じて、
「教育勅語」 の 「曲解」 から抜け出し、
教育の原点に戻りましょう。


この記事は、Twitterユーザーであり、「みことのり」を読む の作者である 
焼野のきぎす@kuzukazuraさんの導きにより、生まれました。
この場を借りて、改めて御礼申し上げます。

(修正履歴)
・1月7日 初公開
・1月8日 勅語の文面の字が小さいため、適宜拡大した文面を本文に追加
1月8日 第1段を誤読されにくくする「テニオハ」のさばきかたを追加
・1月8日 細かく文言を修正
・1月20日 3.の文言を修正


目次


1.「教育勅語」とは何か
2.通俗的な「教育勅語」
3.正しく解釈した「教育勅語」
4.憲法解釈に通じる曲解の根
5.新しい御代に、歴史法学に基づく解釈の復興・再確立を

1.「教育勅語」とは何か

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「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)は、
明治23年10月30日、
明治天皇より渙発(かんぱつ、発布のこと)され、
GHQの占領下にあった昭和23年6月19日、
衆参両議院においてその排除・失効確認決議がなされたものである。

「教育勅語」は、
我が国の教育の基本方針を示す 明治天皇の勅語(ちょくご、お言葉)であった。

発布後、文部省が謄本(コピー)を作り、
全国の学校に配布された。
学校儀式などで奉読(ほうどく、つつんで朗読すること)され、
国民道徳の基準・教育活動の最高原理として権威があり、
これが修身科をはじめ諸教科を規制した。

戦時中には、国民教育の思想的基礎として神聖化された。
とりわけ、1938年(昭和13年)に国家総動員法が制定・施行されると、
その体制を正当化するため、
軍国主義の教典として利用されるに至った。

しかし、「教育勅語」は発布直後から曲解されつづけたものである。
「勅語衍義(えんぎ)」などの解説書は 曲解の宝庫であった。
占領後、GHQは日本人による教育勅語の曲解を鵜呑みにして、
1945年(昭和20年)12月15日 「神道指令」 を発した。
GHQは教育勅語の「之(これ)を中外(ちゅうがい)に施(ほど)して悖(もと)らず」世界征服の思想だと断定した。

GHQは教育勅語が神聖化されている点を特に問題視し、
1946年(昭和21年)、文部省から奉読と神聖的な取り扱いの禁止を通達させた。
さらに1948年(昭和23年)6月19日、衆議院で「教育勅語等の排除に関する決議」
参議院で「教育勅語等の失効確認に関する決議」をそれぞれ決議させて、
教育勅語は学校教育から排除され、謄本は回収・処分された。

2.通俗的な「教育勅語」

では、「教育勅語」 の内容はどのようなものだろうか?
世間一般的に普及している 「教育勅語」 の内容は

天皇の権威を使い、
忠義や孝行などの儒教的な徳目を、
普遍的なものとして命令するもの。

これを踏まえて、
我が国は世界に冠たる 「道義国家」 であると、
国民を鼓舞するものである。

挙げられている徳目は次のようなものである。

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このような徳目はさして問題があると思われない。
しかし、問題視されるに至った。
問題の本質は何だろうか?

原文を見てみよう。

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通説の概略

教育勅語は、3段落からなっている。
第1段落は 概略 が述べられ、
第2段落で 徳目 が述べられ、
第3段落で 徳目の順守 が命令される、
という理解が一般的である。

文章は漢文調で格調が高い。
ただ、日常的でない熟語が多数用いられるため、
多くの人は聞いても意味が分からず、
学校教育などで流される意味をうのみにして今に至っている。
まさか、その意味が「曲解」だったとは 夢にも思わないことだろう。

一般的な理解では、
□で囲った徳目の部分だけでなく、
紫色で塗った部分も その徳目を指している
と理解している。
また横線部分は この徳目の権威を高めるための修飾であると理解する。
このように理解した場合、
「教育勅語」は、
様々な権威を使い、徳目を強調し、その順守を命令する文書
ということになる。

まして、第3段落には 「之を中外に施してもとらず」 とあり、
日本国内だけでなく海外でも通用するとうたっているとされる。
そして、最後の文において、
単に国民だけでなく 天皇陛下御自らも共に守る と仰せである。

こうなると、「道徳の絶対基準」「教育の絶対基準」 となり、
一切の批判が許されない存在となりえるし、
「教育勅語」 で思想武装して、世界へ出て行けということにもなる。
これが暴走すれば、「世界侵略思想」 とされうるわけである。
実際に、そのように運用された事実がある。

曲解が生じた部分

しかしながら、果たして、そんな意図でこれは発布されたものであろうか?
そして、実際に、そんなことが述べられているのだろうか?
もしそうでないなら、なぜそんなことになってしまったのだろうか?

この問題を解くカギは、黄色で示した部分にある。

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まず、第1段落は、

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わが皇祖皇宗(こうそこうそう)国をはじむること宏遠(こうえん)に、
徳をたつること深厚(しんこう)なり、

わが臣民(しんみん)よく忠によく孝に、

億兆(おくちょう)心を一にして、
世々その美をなせるは、

と述べられている。
実はこの3パートはそれぞれ違うことが述べられているのだが、
これらはすべて一緒くたにされてしまった。

明治神宮による公式口語訳(国民道徳協会訳)を見てみよう。
私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
このように、「道義国家」という言葉で、徳目はすべて一元化されていることがわかる。

また、第3段落は、
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この道は、・・・ 順守すべきところ。
これを、・・・ あやまらず。
これを、・・・ もとらず。
朕なんじ臣民と ・・・ こい願う。

の4文からなっている。
2文目と3文目は、主語が明示されていない文である。
しかし、2文目・3文目の「これを」は なぜか主語に転じるのである。

ふたたび明治神宮による公式口語訳を見てみよう。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
「これ」 がいつのまにか 「この教えと、主語に転じていることがわかる。

この第1段落と第3段落の 「曲解」 は、
「勅語衍義(えんぎ)」(井上哲次郎著)から生じている。
「勅語衍義」教育勅語の発布直後に出て 半ば公式解釈書とみなされるようになった。
戦前に発行された300の注釈書は この 「勅語衍義」 を踏襲した。
戦後の明治神宮による口語訳もその延長線上にある。

GHQによる断罪は
これらの 「曲解」 を根拠としてなされたものなのである。


では、一足飛びに、
「本来、何が述べられていたのか」 について、
お示しする。

3.正しく解釈した「教育勅語」

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概略

教育勅語は、3段落からなっている という点は変わらない。
しかし、内容は微妙に異なっている。
第1段落は 概略 が述べられる。
   ただし、その内容は3つある。
   天皇の徳(君徳)に関すること、
   臣民の忠孝(臣徳)に関すること、
   君と臣が共鳴してこの国の美がかもされること
   この3つである。
第2段落で 徳目 が述べられるが、
   ただし、その内容は、臣徳に関することに限られる。
   「扶翼(ふよく)すべし。」は、命令ではなく、当然の意味である。
第3段落は 徳目の順守 を命令するものではない。
   第1段落で3番目に述べた 「君と臣の共鳴」の順守 が訴えられる。
   「遵守(じゅんしゅ)すべき所」とあるが、これも同様に命令ではなく、当然の意味である。

通俗的な理解では、
一本道で 「徳目」の順守が命令される
のに対し、
本来は、
君徳 と 臣徳 が並列されたうえで、
君臣の共鳴 が訴えられている。
訴えの内容は、
君徳 (青色で示した)
臣徳 (□で囲んで示した)
君臣の共鳴 (水色で示した)
の3つなのである。

第1段落

第1段落は、
(ちん、天皇の一人称=私) おもうに、
我が皇祖皇宗(こうそこうそう、初代天皇に始まる天皇のご先祖方)
国を はじむること 宏遠(こうえん)
徳を たつること 深厚(しんこう)なり
と始まる。

この 「徳」 こそ 「君徳」 である。
では、「君徳」 とは何であろうか?
この教育勅語を起草した井上毅(いのうえ こわし)は残している。

「御国(みくに)の天日嗣(あまつひつぎ)の大御業(おおみわざ)の源は、皇祖(こうそ)の御心(みこころ)の鏡(かがみ)もて 天(あめ)が下の民草(たみくさ)を しろしめす といふ意義より成立(なりたち)たるものなり。 かかれば御国の国家成立の原理は 君民の約束にあらずして 一(ひとつ)の 君徳 なり。 国家の始(はじめ)は君徳に基づく といふ一句は 日本国家学の開巻(かいかん)第一に 説くべき定論(ていろん)にこそ あるなれ」(井上毅)

「しろしめす」というのは、指導者が私心を去って国を見守る ということである。
私欲にまみれた征服者ではなく、
「みんなのことを見守る」 という方が指導者となり、
君となってからも その姿勢を変えなかった ということである。

これは、武力を背景にした征服・収奪という一般的な支配者の態度の真逆である。
ゆえに、このすばらしい態度を 「徳」 と呼んでいるのだ。
このことを、「教育勅語」 は冒頭で述べている。
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国を肇(はじ)むること宏遠(こうえん)に 徳(とく)を樹(た)つること深厚(しんこう)なり
国を始めるにあたって 「しろしめす」 をもって行った

次に、その君徳を受けて、臣下はどうあったのかが述べられる。

我が臣民(しんみん) 克(よ)く忠(ちゅう)に 克く孝(こう)
臣(とみ)も民(たみ)も 忠義をつくし 孝行をつくして (応えてきた)

つまり、

君である天皇を守り、
家においては、先祖や両親につかえて
「君徳」 に応えてきた

ということである。
これは当たり前ことではないか?
これまで一度も皇室が滅びたことがない ということは、
とりもなおさず、我々国民の先祖は 天皇を守り続けた ということである。

直接的には朝廷を守り、
間接的には所属する主君を守ったり、家を守ることによって、
この国、ひいては、天皇陛下をお守りしてきたのである。
このような当たり前のことによって、
天皇陛下の 「無私の治世(しろしめし)」 に 応えてきた のである。

しかし、臣下は 好き放題の暮らし をしていたわけでない。
何かを守る ということは、
取りも直さず 何かを諦め 部分的に自分を抑えること である。
ある時には 自分の生命を投げ出してでも である。
言い換えれば、
臣下もまた 何らかの道徳的行動を行ってきた
ということである。

その素晴らしいことを 「徳」 というなら、
臣下にも 臣下なりの 「徳」 があった。
ここでは それを 「臣徳」 と呼んでおこう。
その代表選手が 「忠 (主君への忠義) と 「孝 (親への孝行)
つまり 「忠孝」 である。

教育勅語を起草した井上毅は残している。

「我が臣民の一段は 勅語即ち皇祖皇宗の対-股(むきあい)-文にして」
(井上毅)

「君徳」 に対応した 「臣徳」 がありつづけた ということである。
「君徳」「臣徳」 ではない。
俗世に生きる臣下は 無私であり続けることはできない。
君が無私でいて下さる結果 臣下の我々は私欲を追求できる。
しかしながら、臣下もまた 忠孝によって自らを律してきた。


そのような と 臣・民が こころを通い合わせる

億兆 心を一にして
世々その美(び)をなせるは、
これ 我が国体(こくたい)の精華(せいか) にして、
教育の淵源(えんげん) また 実に ここに存(そん)す。

億兆のこころがひとつになって
いつの世も その美しさを表してきたことは、
これこそ 我が国の国の形の まことの花 といえるもので、
教育の源もまた 実にここにあるのです。

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国歌 「君が代」 

さざれ石の
いわおとなりて

と同じことが述べられている。

「君徳」 と 「臣徳」 が ハーモニーを奏でる時、
我が国は光り輝く ということである。


第1段落は西洋文法式に解釈すると、構造を見誤ってしまう。
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わが皇祖皇宗国をはじむること宏遠に、
徳をたつること深厚なり、

わが臣民よく忠 よく孝に、

億兆心を一にして、
世々その美をなせるは、

「深厚なり」 で切れるのはわかっても、
その後の切れ方はわかりにくい。
だらだら続くので
「皇祖皇宗の打ち立てた徳目で団結した」
だと理解されてしまいやすい。

西洋文法式にメリハリをつけるなら、
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わが皇祖皇宗国をはじむること宏遠に、
徳をたつること深厚なり、

わが臣民よく忠 よく孝にして

億兆心を一
世々その美をなせるは、

とあればよかったのだろう。
こうすれば、1句目と2句目は 「対(つい)」 だと認識しやすくなり、
3区目が、1句目と2句目の統合だということがわかりやすくなる。

第2段落

そこで、臣民が守ってきた 「臣徳」 とはどんなもののかが、
第2段落で述べられる。
「忠孝」 をさらに具体的に述べたのが第2段落になる。
この徳目の内容は、特に大きな差はないので、説明は省略する。

もっとも、儒教を念頭においたものでなく
長らく大切にされてきた徳目を確認したに過ぎない。
念のため、先の 「12徳」 の表をふたたび示しておく。

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この12徳を踏まえて、次にその意味が述べられる。
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もって 天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運(こううん)を 扶翼(ふよく)すべし。
かくのごときは ひとり朕(ちん)が忠良(ちゅうりょう)の 臣民(しんみん)たるのみならず、
またもって なんじ祖先の遺風(いふう)を 顕彰(けんしょう)するにたらん

この12徳でもって あめつちに永久に続く天皇の位を 助け守ってきたし、今後もそうなのだ。
このようにすることは、ただ天皇陛下に忠義をつくす臣民となるのに必要なことであろうだけでなく、
また同時に、なんじ臣民のご先祖のよき伝統を明らかにしてたたえるのに必要なことだろう。

「すべし」「たらん」のニュアンスは、本来、このようなおだやかなものなのである。
12徳の実践によって、天皇の君徳に応え、
同時に、ご先祖のよき伝統をたたえていこうという
さとしの言葉である。

第3段落

続いて第3段落では、
君臣の共鳴・ハーモニーが述べられる。

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(こ)の道(みち)は 実(じつ)に 我(わ)が皇祖皇宗(こうそこうそう)の 遺訓(いくん)にして、 子孫(しそん) 臣民(しんみん)の 倶(とも)に 遵守(じゅんしゅ)すべき 所(ところ)

「この道」 は、
天皇にとっては、君徳を守ることであり、
同時に、君徳に応えた臣民を見守ることである。
これはまさに歴代の天皇陛下がしてこられたことである。
だから、「我が皇祖皇宗の遺訓」 になるのである。

また臣民にとっては、臣徳を守ることである。
これもまた代々の臣民がしてきたことである。
だから、「子孫臣民のともに遵守すべき所」 となる。

次の 「これを古今に通じてあやまらず」 「これを中外に施してもとらず」 は、
主語が明示されていない。
もし、「この道」 が主語であれば、「これを」 と矛盾する。
「〇〇が これ(この道)を 古今に 通じた」
「〇〇が これ(この道)を 中外に 施した」 という文である。
主語が「朕(天皇陛下ご自身)」 では、「古今」 と矛盾する。
この文の主語は、「我が皇祖皇宗」 である。

つまり、
歴代天皇は、「この道」君徳を守り、君徳に応えた臣民を見守ること=を、
昔から今までずっと続けてこられて あやまりはなかった。
「この道」を 宮中でも宮外でも、都でも都外でも施してきて、ねじまがることはなかった。
だから、

(ちん)なんじ臣民とともに 拳々服膺(けんけんふくよう)して、
みなその徳を 一にせんことを こい願う。

天皇陛下ご自身も、なんじら臣民ととともに この道をしっかり 心に留めて、
みんなで「君徳」 と 「臣徳」 が 一体とできることを こころから願う。

と締めくくられるのである。
これが 大和であり、和の精神 だということなのである。

西洋式文法の下でも、
解釈を迷わないようにするなら、
次のように主語を補完しておけばよかったのだろう。
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君徳とは、子に対する親ごころと例えてもよい。
父・母が、子供に対して無私で無償の愛を注いでくれている。
子供はそのことに無意識に、または、気づいて応える。
すると、親子のきずなが結ばれ、花が咲く。
この関係を、いつまでも続けてゆこう、天皇ご自身も努力するから、
というお言葉なのである。

公家と武家(=臣とみ)はともかく、
多くの民衆(=民たみ)には忘れられた存在であった天皇が、
権威を盾に命令するのは 変な話ではないか。

教育勅語が発せられた明治23年は 日清・日露戦争の前である。
我が国は欧米列強におびえ、
臣下も、民衆も、日本式を捨てて欧米列強になびいていた時なのである。
そんな時に、
「長い歴史を通じた我が国の姿を思い出そう」
「古来の道徳を忘れず守り続けよう」
という 天皇の切なる願い これが教育勅語なのだ。

なお、「中外」について補足させていただこう。
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明治11年、侍補(じほ)たちは 「勤倹(きんけん)の詔」 を 「速かに中外に公布」 されるよう右大臣に要請した。
これは 地方の教育に関する 明治天皇の思し召し があったからだ。
地方の教育に 外国は関係ない。
教育勅語の 「中外」 もこれと同じである。

つまり、教育勅語に述べられる 「臣徳=徳目」 は、
日本国の臣下や民が守ってきた徳目 を 確認したに過ぎない。
徳目が通用してきたのは 必然的に 日本国内 ということになる。
教育勅語の徳目には、日本国を超えた普遍性がある という根拠はない。
むしろ、我が国固有の徳目であり、だからこそ日本国民にとって尊いのである。

普遍という言葉で言うなら、
我が国の歴史を通じた普遍性があるから尊いということである。

我が国の考えは 「郷に入っては郷に従え」 ではないか。
我々のやり方で世界中やり通そう、
というものだろうか?
このことからも 「中外」 の 「外」 を 外国だとするのは、
勝手な拡大解釈 「曲解」 とするよりない。

まとめ

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ここで、「通説」 と 「本来の意味」 との相違をまとめておこう。

通説  天皇が権威を盾に国民に徳目の順守を命令するもの
本来  天皇は君徳を守り、国民は忠孝を核とする徳目を守り、
     こころを通い合わせようと呼びかけるもの

通説  徳目は普遍的であり国外にも通用する
本来  古来から国民が守ってきた徳目を確認したに過ぎず、
     徳目は日本国民限定で国内限定である

通説  世界に通じる普遍的な徳目だから尊い
本来  我が国で歴史を通じた普遍性のある 我が国固有の徳目であるから尊い

4.憲法解釈に通じる曲解の根

「勅語衍義」は公式解釈ではない

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「教育勅語」 の起草者である 井上毅(いのうえ こわし) は、
起草7原則 を 山縣有朋総理大臣 に示している。
  • 君主は臣民の心の自由に干渉しない
  • 敬天尊神などの語を避ける
  • 哲学理論は反対論を呼ぶので避ける
  • 政事上の臭味を避ける
  • 漢学の口吻(こうふん)と洋学の気習とも吐露しない
  • 君主の訓戒(くんかい)は汪々として大海の水の如く
  • ある宗旨が喜んだり、ある宗旨が怒ったりしないもの
ここから、
「天皇が権威を盾に 国民に儒教的徳目 の順守を 命令するもの」
が出てきようがない。

井上毅は、理論を避け、歴史事実にもとづいて淡々と起草したのである。
そんな井上毅を、明治天皇は重用された。
井上哲次郎は、「教育勅語」 の公式解説書を出そうと 
「勅語衍義(えんぎ)」 をしたためた。
これをご覧になった明治天皇は、
「斯の書 修正の如くせば 可ならん、
然れども 尚 簡にして 意を盡さざるものあらば、
又 毅(井上毅)と熟議して 更に 修正せよ」
と述べられた。

結局 「勅語衍義」 は公式解説書とはならず、
井上哲次郎の私著 私的解説書 として発行されたに過ぎない。

しかしながら、「勅語衍義」 は 多くの解説書に影響を与え、
戦前の教育に多大の影響を与えつづけた。
さらには、この解釈があだとなり GHQから排除され 
戦後の教育はボロボロである。
だが、「勅語衍義」の解釈は 明治天皇のお考えに沿ったものではなく、
その最大の助言者であった井上毅の眼鏡にかなうものではなかったのである。

曲解・暴走の原因

教育勅語を天皇の命令と曲解するような解説書が、
公式解説書となることはなかったが、
現実には大きく普及してしまった。

では、なぜ 「教育勅語」 は 「曲解」 されたまま暴走してしまったのだろうか?
「曲解」 を受け入れる素地があったと言わざるを得ない。
原因は5つあげられる。

・欧米コンプレックス
 ・・・ 欧米列強に対抗でき 気後れしない普遍的な思想がほしかった
・ドイツ法の影響
 ・・・ 慣例が法という伝統から、法令は命令とするドイツ法的解釈に変化
・欧米文法の影響
 ・・・ 漢文法から欧米文法に規範が移り、主語の誤読など解釈が変化した
・儒教勢力(武士階級)の強さ
 ・・・ 江戸時代に徹底された上意を至上とする武家の思想が根強かった
・教育の容易さ
 ・・・ ありがたいものだから この通りやれ、というのは教師にとって楽だった

これらがあいまって、
天皇大権=天皇の命令による政治
      =天皇の命令による教育
となったのであろう。

法令を 「命令」 と考えるドイツ法の発想は、
深く近代日本に浸透してしまった。
歴史を通じた 「当たり前」 を淡々と述べるのが  である。
という 日本の伝統は影を潜めている。

戦前の 「天皇機関説」「統帥権問題」 も、
戦後の 「憲法9条」「政教分離」 等の問題も、
法令を命令ととらえ、 
その文言を暴走させる 
という同じ現象である。

だから、このような 「曲解のわな」 は、
「教育勅語」 を廃止・排除したところで なおるものではない。
むしろ、さらに暴走し続けているのではなかろうか。
これらはほとんどそのまま、戦後教育の構図である。

・敗戦コンプレックス ・・・ 欧米の教育に迎合した普遍的な思想をもてあそぶ
・ドイツ法の影響 ・・・ 慣例が法だという伝統を忘れ、法令は命令と今も錯覚
・欧米文法の影響 ・・・ 欧米文法で文を理解するので、漢文が読めない
・儒教勢力の強さ ・・・ 上意の代わりに、人権・子供の意思を至上とする
・教育の容易さ ・・・ 子供のわがまま通りにやるのは教師に楽(=ゆとり)

このことは、
単に教育に限らず、
憲法やその他の法令の運用においても、
同様である。

戦前を 「天皇大権」 と錯覚した集団は、
戦後 「国民主権」 と逆さに振れた。
そして、文言を暴走させ 
慣習(=法)を破壊することに酔っている。

憲法および法令の番人である 内閣法制局
文部省(文部科学省)
学者たちも
教科書
マスコミ人たちも

戦前も 戦後も 変らない
これが我が国の現実である。
この現実から目を背けず 直視しよう。

戦前の教育の暴走も、
戦後の教育の崩壊も、
「教育勅語」を まとに解釈できなかったことから始まっている。
むろん、「明治憲法」も まもとに解釈できなかった
だから、「日本国憲法」も 今なおまもとに解釈などできない ままだ。

そうである以上、千里の道も一歩からで、
まず、足元を固めようではないか。
「教育勅語」を正しく解釈し直すことから。

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5.新しい御代に、歴史法学に基づく解釈の復興・再確立を

ここに述べた 「教育勅語の本来の解釈」 は、
本来、当たり前のことである。
気づけば、どうということのないことである。

しかし、学校教育受験勉強を通じ、
公務員試験司法試験を通じ、
そして、マスコミを通じ、
近代日本人の頭の中には、
様々な思想や知識が詰め込まれている。

そんなものにしがみつかずに、
ありのままに見る。
ありえないことは馬鹿馬鹿しいと遠ざける。
背筋を伸ばし 言葉に流されない。
ご先祖たちが大切にしてきたことは何だったのかを見つめてみる。

もっとも、異常な思想や知識を注入された後に、
それを抜け出すのは大変である。
歴史に基づいた教育・道徳が先に注がれる環境

転載元: オノコロ こころ定めて


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